昭和40年02月13日  朝の御理解



  親神様が「どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ」と信心しておかげを受けてくれよと。そういう切実な願いを持っておられる事を、いろいろな時に体験さして頂くので御座いますけれどもこれは私も同じ事。もうここに御神縁を頂かれた方達が、もう一人一人が本当に真実お蔭を頂いてほしい、頂いてもらわんならん。もうそういう切実さは、まぁいうなら、天地の親神様の大ざっぱな、それよりも強いんじゃなかろうかと思うくらいに思います。ね、
  神様の「どうぞ氏子、信心してお蔭を受けてくれよ」とおっしゃる、その切実さというものは、例えばあの親が子を思う切実さと言った様なものの方が強いようです。ね、取次の御用さして頂く者がここへ御神縁頂いた。おかげで頂いておる者の上にです、思いをかけると言う事は、もうそういう切実さ大変表現が、おかしい表現ですけれどもですね、神様は、それよりももっと切実に、ほんとにおかげ頂いて頂きたいという願いを持っておりますですね。
 ほんとに神様の思いと云うかね、その又取次者が信者の一人一人の事を思うと言う事。もう本当に自分が身が可愛いからと言う様なものではない。もうとにかく人が助かりさえすればという、教祖の神様のはいうその気持ちなんですね。そりゃ神様の御都合の事を思うと愈々それを感ずるですね。私は昨日高校に入学試験のお取次させて頂いておったのが、昨日あれも出来なかった、是も出来なかったと言う事を聞かせて頂いた時に。
 神様にその事をお取次させて頂きよりましたらね『おかげ』と仰る。そしてですね次の○○高校という高校の上にです、私その高校よく知ってるですけれども『その上にもうそこ一杯大きな八ッ波の御紋章を頂くんですね。旗を学校の上にそして所謂飛行機から、上から見ると【    】上にこう貼ってある訳なんです。大体神の願いはここにあるという仰る。ここが一番金光教的だと仰ってる。』私がそれを頂いた時にですね。
 本当にあのおかげが受けられなかったと、がっかりどもしちゃぁならんなぁと言う事ですね。例えばどこがえぇのここがえぇのと、人間の浅い知恵やそこで神様がそこにしたらよかろというて下さるから、もうそこがよいというのじゃないです。ね、ははぁ自分の才能はここよりも、ここの方がよい又自分の才能てい云うものを知らせる為に、分からせる為にですね。神様がいわば手の込んだ、御演出のあっとったと言う事ですたい。ははぁそういう意味だったわいの。
 所謂私はその事を頂いてからですね、上から見れば神様の目からご覧になればと言う事でしょうね。上に八ッ波の御紋章を、一杯をその学校の上に頂くんです。こういう思いが、私自身分かったらですね、本当にもうここん所でおかげを落とすような事があっちゃならんなと、こういう思いに添うていかなきゃいけんなという、切実にするんです。ね、そして神様の「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と、仰るそのおかげを頂きとらなければね、本当に神様が悲しみなさると言う事ですね。
 昨日私あの玉露のええお茶を、何杯も頂いておったからでしょうかとうとう休んでから、それを考えこれを考え、一睡も出来ませんでした。それを中心にこんな事でした。夕べ善導寺の久保山先生のところの御霊のお祭りが御座いましたから、帰らして頂いてからここへ皆さん待っておられて、色々お話しさせて頂く時に、このお道の青年という御本雑誌が出よります。
 それに私にとって金光教とは何であるかと言う事、私にとって金光教とは何であるかというそのテ-マでですね、まぁ書いてくれ話してくれというふうに言うておられる。その答えがどこどこの若先生、どこどこの御信者さんと言った様な方達が書いておられるのを、私が読ませて頂きましてですね、そして私皆んな集まってる中で、「皆さんどうですか、私の所謂金光教というのはどう言う事になっておるのか、ね、
 親子の関係にあるか、ね、切っても切れん仲にあるのか、それとも死んだならよかたい、又買おたい。ここが悪かったら、又他のとこへ移ってもよかたい。なんなん教でもええと言った様なものか、又従兄弟の切れ端のような関係かと、どう言う様な関係にあるかと言う事私は椛目でいいです、皆さんがどういうふうに金光教を受け取っておるだろうか」という質問をした。
  「古賀先生、あんたどけなふうに思う」と、こう申しましたら、古賀先生が、「金光教は矢張り自分の生命ばいの」ちね、金光教は自分の生命だとこういう。次に椛目的せつめいをするだろうと思うて、まぁ具体的に求めたところが、まぁ実に理屈っぽく言うです。キリスト教を持ち出し、仏教を持ち出しそうじゃったら椛目的なもの、なんにもないじゃないかと思うたんですね。はぁこりゃ椛目的なものを身に着けるために、先生ここに来ておるとにね、
  金比羅さんそれは今日お話のすじ違いでございます。けれどもです皆さんの場合はどうでしょうか、金光教と云わずにです、これを身近にね椛目と言う事になさったら、もっとはっきりした、所謂椛目的答えが出るだろうと思うんです。もし私に椛目がなかったらと云う事になるんじゃないでしょうか。もし金光教がなかったらという意味合いなんですよね。どうしてもあの椛目に御縁頂かれるなら、ね、
 椛目的にならんにゃいかんです。私その事についてから、私一番かんじんな事は、私の場合は、生命以上であると言う事である。私の金光教というのは、生命以上であると言う事。ね、まぁそれはどういう意味合いであるかと云う様な事は、まぁ一口には申し上げられんですけれど、とにかく金光教によってです、私達だけではない、いろんなめぐりのお取り払いが頂けると言う事です。
  金光教によってです、あの世にも持ってゆかれればです、この世にも残していけれる所の、お徳の頂かれる道を、教祖は金光教は私に教えてくれておると言う事です。私はまぁこんなふうに感じるというて話した事ですけれども、そのなんともなかったんですけれども、昨夜眠れませんもんですから、その事考えておったら、どうしても眠れんのです。これじゃ古賀先生助からんだろうと私思うたです。
 こげんいつまでたっても椛目的ならんごとなら、本当にもうこりゃ助かりはなかと私思うたです。寝てから特に切実です。ね、まっいうなら古賀先生の事で、一睡も致しませんでした。実をいうとそれにです、私今迄折角ここのおかげ頂いたのであるからです、助かってもらわんならん、おかげ頂いてもらわんならんという思いが切実だからなんです。そしたらもう家内が起きまして、家内が4時半におこしましたから、起きてから床の中で御祈念さして頂いておりましたら、頂きます事がですね。
 あの『こげな教えがございましたら、もちと早う下さればいいのにと思うた。只神様が修行さして下さる。私に修行さして下さるわけなんですね。先日こりゃ久保山先生のお宅祭りの時に、稔さんがお寿司を握って下さった。わざわざあの「コハダ」という魚を、東京からわざわざ持って来て、そして丁度善導寺の親先生に頂いて頂く頃が、一番おいしいという、ころ合いという時間を計って温度の事から心を配って持って見えて、そのコハダのにぎりを頂いたんです。
 その時頂きながら説明を聞かせて頂いた事ですけれどもね。昔はこの東京でこのコハダというのは、もうコハダ一本のコハダという寿司だけで、店がたっとったと言う位だそうですね、所が昔はですね、その侍の階級は頂かなかったと言う事。庶民のいわば食べ物であったと言う事。あれはねそのコノシロじゃない、コハダの前をコノシロというそうです。だから侍としてはコノシロを食うとっちゃね、この城を食うち、まぁ縁起を担いで、コノシロを食べないという訳なんです。
  所がそのコハダというのは実に小粋な魚、小粋な握り寿司として、その江戸っ子にもう、なくてはならないお寿司だそうです。『その事』を頂くんです。ね、私のいうならです、ね、コノシロを食うなよこの城を破らなきゃいけないと言う事なんです。自分の枠というものを破らなきゃいけないと言う事。椛目で信心頂くならです、今迄のいわば仕方のない信心を一遍かなぐり捨てなきゃいけないと言う事。
 脱皮しなければ。ね、はぁこの城の中に閉じこもっておると言う事なんです。古賀先生の場合、ね、この城の中に入り込んだって、もう仕方がないじゃない、篭城するよりほかはないじゃない。けれどもですここに例えば、私の信心がもう一段進んでです、いわばそこに酢を効かしてやればですね、あれは生のにぎりではないけれども、生のにぎりで握る寿司なんですね。
  あのコノシロという魚は、ね、椛目的のその生々とした、例えばマグロとかですね、タコと言った様なものでもなくてもですたい、ははぁ古賀先生の場合なんかは、この小粋なその握り寿司の方にしめていきゃままになるなと言う事を、こりゃ中々見込みがあるという感じがしたんです、ね。所謂小粋な信心小粋な先生としてですたい、人はひとぐち尊敬するような、先生に育ててゆく為には、こりゃ酢を効かせなきゃいけないと、お酢を効かせておかなければいけないなと。ね、
  けれどもここに分からなきゃならん事はです、この城の中に閉じこもっておっては、しかしきかせようがないと言う事。これは古賀先生の事だけではありませんです。皆んなもいうなら、椛目的であってです、もうそりゃ椛目で初めからおかげ頂いた人は椛目的ですけれどもです、ね、そんなら果たしておかげの頂けれる、お徳の頂けれる、めぐりのお取り払いの頂けれる。
 あの世に持ってゆかれ、この世にも残しておけれるようなおかげの頂けれる、おかげを頂いておるかというと、私は頂いていないと。まだこの城の中に皆んなが、入っておると言う事です。さっきから高校試験のその事を申したようにです、ね、神様の御都合というものは、その学校の試験を受けさせ、この学校の試験を受けさせてあるけれどもです、ね、それはそこ迄来る所の飛び石台であって。
 古賀先生の場合だって、この世に生まれてああ言う所を通らせて、こう言う所を通らせしてから、飛び石づたいにです、所謂この城を取らせて頂かされようとする様々な働きを自分で感じて、ね、やっぱりその中から私は脱出する所の、脱皮する所のおかげを頂かしてもらう時です。ね、私はこの度大変この握り寿司が好きですけれども。もうこの度程、コハダの寿司の味合いというものが分かったのは、こんどが初めてでしたが。
 そういうです、ね、そういう素晴らしいおかげの頂けれる場というものを、古賀先生が、自分に身に付けて下さると言う事がです、又私がつけさせなければです、そういうおかげを頂いてほしいという願いを、愈々私が持たなければです、古賀先生はもう椛目におるもんじゃなかて。ここん所一辺この城から出て、そしてコノシロから、いわばコハダ寿司になる所のおかげを頂かなければ、そこには私が酢も効かせよう。
 又はお塩もかけよう、けども出てこん事には仕方がない。コノシロからコハダになる。脱皮しなければ。椛目では様々な会が10幾つあります。その中で例えば特別な会が、敬親会というのがあります。ね、65才のお年寄りの方達の集いなんです。これは敬老会ではないです。椛目の場合は敬親会です。菊栄会というのが御座いますね、菊の栄える会という。ね、美登里会というのがあります。13日会というのがあります。これなんか椛目独特の会合なんです。信心共励機関なんです。ね、
  その他にいわば婦人部会とか、壮年部会青年部会は勿論のことですけれども、ね、それぞれに神様から、その会の名前を頂いて、これに一つ竹葉会というのがあります。女子青年と婦人の間にある会なんです。竹の葉の会と書いてある。ね、そのいわば会の上に頂いておる、その会の名前がですね、どうぞその会員にかくあってくれという願いの会なのです。例えば敬親会でいうならです。
 只、嫁ごと仲ようしていく事の為の、と云ったような事ではなくてですね、いよいよ自分が、親を敬うところのお蔭を頂かねばならないと云う事。先祖を敬うのだ。神様を、いよいよ分からせてもらうんだ。そして、若い者の為には、家の中では、云うならば、もう御祈念係、信心係としての信心を進めてゆこうと云うような、一つの目指しがあるのです。敬親会には、ね。
 例えば菊栄会なんかでもそうです。菊栄会の例えば年齢を見るとそれがそういう感じがするですけれどもです、菊というのは椛目の信心のシンボルといわれておる。椛目の信心が、愈々栄えてゆく事の為にです、僕達の信心があるというものでなからなきゃならないと言う事を思わし、はっきりしてる。竹葉会というのは、愈々竹の双(そう)のように、素直な信心に焦点をおいて向上させて頂こうとこういう。
 若嫁さん達の会。主人の前にも親の前にも、ね、愈々素直な信心を進めてゆこうという、その一つのその会その会のスロ-ガンという物がある。特に例えば13日会なんかというのは、神の悲願達成の為の会だと、神様は言うておられます。又会員もそのつもりでおります。けれどもですそういうそれぞれの会に、それぞれの目指しという物があるけれどもです、それは目指しがあるだけで、それを本当に私は焦点をおいての信心をしておる者が今何人。
  古賀先生のそれじゃぁないけれども、まだその中に【    】あると言う事。本当に私の所の菊栄会は、菊栄会としてのです、ね、本当におかげを頂く為の、果たして信心が出来ておるか、所謂どれもこれもその中にあるのであって、脱皮していないと言う事。13日会の方達が皆さん集まって、誠13日会としての例えば御建築費と言った様なものを、銘々お供えになります。ね、
 それがお供えが出来るから、もう13日会の願いというものが、もう達成された様な思い方をしておるなら、これは大変な間違いです。ね、本気で例えばその枠から出て来なければです、自分のいわば殻を破らなければです、神様の悲願達成ね、神様が願うて御座る所の願いに私共がです、毎月特別なお供えが出来たから、それで神様が喜んで下さると思うたら大間違いって、ね。
  昨日の朝の御理解の中に私は神様に頂きました。神に使う『神に使われ、神を使え』という御教えを頂いた。ね、本当に神様に使えれる私達であるかと言う事。神様に使うて頂けれる自分達であるかと言う事である。本当に、神様に使うて頂けれる私になる為にです、ね、お互いの信心が一段垢抜けしてくる為に、脱皮しなければならない。城の中から出て来なければいけない。
 自分の信心の枠の中に入っとたんでは、出来んと言う事。神様に使うてもろうても、城の中に、こう入っとたんでは使えんじゃないですか。といって神様が引っ張り出される訳にゃいかん。引っ張り出されようと思うてから、例えばこうあってもですね、それに出てこうとしなかったならば、神様使うちゃ下さらない。そんなら神様も又神を使えという、神様を使うと言った様な事は、愈々でけんのです。
  私昨日そういう御理解を頂いておったら、何事からでしたか、古賀さんが大久保先生が、お体が悪いと言う事で、わざわざお初穂を奉ってから、大久保先生の事お届けされた。それから、大久保先生の話しょった時に、その古賀さんがここで話されるのを、聞かせて頂いてはぁ有難いなぁ、今朝の御理解につながっておる、なんて素晴らしい御教えだろうかと。これは最近あちらの教会が非常に、この淋しいち、ね。
 ちょっと考えて見てごらんなさい、ね、神様に使われるならばこれは本当に使いかたではない証拠ですよ。あちらの親先生は、例えばお道の補教として、いや補導ですね、所謂先生方の又先生って訳です。御本部へいつも行かれる親先生、すと若先生はというたら、教師の御用をしておられる。ですからいわば、神の用に使われておられるようですけれども、これは人間的なものでしょうがそうでしょうが。
 神様はいっちょん使うてござらんと言う事が、まぁ現在のお広前が淋しいと言う事になっておるでしょうが。本当に以前私どもがおかげ頂いておる時分には、それこそ死んだ子供をひっ抱えて来るとです。先生は御祈念して生き返るようなおかげ頂いとった、あの時分なそういうものが、全然今の飯塚の教会にないって。是は大体私死んだともの死信心でもするじゃろうかというて、あそこの信者にはそんな事はない。
 とにかく・・・よりなかと私が。と言った様な事からでした。あのお若い時先生こう言う様な御教え、神様から頂かれた事がおありになるというて、あのここで話して下さった中にですね、『神は取次を自由にし、取次は神を自由にし、あいよかけよで楽しいものぞ』という、お知らせを頂かれた。神様はですね、神様は取次者を自由自在に使われると言う事。その取次者は、神様を自由自在に使う。ね、
 あいよかけよで楽しい事ぞと仰る。こげな楽しい事はなかろう。神様も使うて楽しゅうてこたえん。取次者もいわば、使われて楽しゅうてこたえんと言う様なお蔭なんです。それが、本当のあいよかけよぞ楽しい事ぞと、最後に結んでおられます。後で又神様がですね、本当楽しゅうにおかげを頂かれる為にですよ、ね、いかに神様がです取次を自由に使いなさると言う事は、取次だけの事じゃありませんよ。
  皆さんでもいわば本当に、自由自在にです総代なら総代、菊栄会なら菊栄会その場所の人達でなからな出来ない御用にです、自由自在にお使いまわし下されるだけの、私共になっておかなければならん。そんな、城から出て来とかなければです、城の中にこもっておってどうして、使うてもろうても、使いなされんじゃないかと云う事。そこにいわば、神の取次の為に自由になれると云う。
 神様がいわば氏子の為に自由になられる。ね、「氏子が神様任せなら、神様は氏子任せになると仰せられますから」と、こう三代様が教えておられます。それと同じです。昨日、久留米の野口さんがお参りして見えてから、あの人は非常に本当に皆さんよい信心をなさいますけども、ね、涙もろくないですこの人は。非常にその元気なんですね。所が昨日ばかりは涙をポロポロ流してから、もうお取次を頂きお礼を言われるんですよ。
 「先生昨日こちらから帰らして頂きましたら、小倉のよし子の所から手紙がまいっとりました。もうその手紙を見せて頂いて、もう昨日からこれがうずくごとある。有難うしてから。今日実は私の誕生日で御座います。その誕生日の喜びとこれを本当に、この喜びを、この子供達にどげな祈りをもってしたならええだろうかと思うて、胸がうずくごとございます」と言うて、その前置きしてから、お礼言われるんです。
  よし子さんの手紙にです、今日はお母さんの所に、お母さんの髪を洗ってあげたいと思うてから病院に行ったち、そしたら、もう、お母さんが、もう本当に喜んで喜んで、頭をここさへ出してから、洗うてもらえるのが、もう、丁度、私が娘時代に、お母さんから頭を洗うておってもらう時のようなふうで、まるっきり親と子が反対に、おばあちゃんが子供で、よし子さんがお母さんちゅうごとあるごとですたい。もうその喜ばれるそうです。もう自分がお母さんの髪を洗うてやるのが。
 もう涙がポロポロ流れてから、もうお母さんに頬ずりしたいごとある気持ちだったと、書いてあったそうです。ね、最後に本当にこの世の中では、一番嫌いなタイプのお母さんがです、いつの間に、どうして、こう云うような心の状態になれただろうかと、親先生、有難うございます。お母さん有難うございます。て書いてあったげな。私思うのにです、ね、本当にねあの例えば何といいますか、もう姑とその嫁の仲がです、まぁお互いがこらえていきよる辛抱してゆくというお蔭じゃなくてです。
 芯から根からおかげを頂いておる、これはいわば・・してないからなんです。そういう垢抜けしたおかげがですね、頂けなければならないはずなんです。この世の中で一番嫌いなタイプのそのお母さんに対してですたい、ね、口吻(こうふん)したいごとあるものを、最近感じると云う事。お母さんも喜ばれるなら、所謂、よし子さんも喜ばれる、本当に親と姑親とその嫁が拝み合っておると云う姿なんでしょう。それがね、お互いのね、いわば、つまらん信心の中にね、入り込んでしもうておった
   (途中切れ)